人生で大切な事の半分は、マガジン=雑誌から学んだ。

公益社団法人 日本パブリックリレーションズ協会
副理事長   大石哲也

マガジン好きというか、フェチ=オタクかも知れない。小学校の頃より少年サンデー、マガジン、キング、ボーイズライフ、子供の科学はもちろん、3つ年上の兄の影響か、平凡パンチ、ポケットOH!まで年よりマセた雑誌を読み込んでいた。読むのではなく、本屋さんが届ける日が待ち遠しく読み込んだのだ。中学に入るとそれらに、メンズクラブ、週刊プレイボーイ、新譜ジャーナルが加わった。高校に入ると更に加速して、兄の読む話しの特集、SFマガジン、ミュージックライフが加わり、大学に入ると、創刊号収集が始まる。
平凡出版(マガジンハウス)のポパイ創刊号、(ホップなアイ)前身のUSAカタログの編集室は六本木だった。ある処から帰りある事をある連中とやっていたので(注1)、このポパイには何度も取材された。高平哲郎責任編集の宝島(その前身はワンダーランド)で植草甚一と出会いコーヒーの豆まで改めた。テディ片岡と言う名の作家から缶ビール&ピンボールに染まり、浜野安宏思想を頭から浴びる、ネイチャー&ヒッピーカルチャーの時代、ローリングストーン、ビックリハウス、いんなぁとりっぷ、徳大寺有恒が編集していたチェックメイト、先輩が編集していたサーフィンワールドでは親友がカメラマン修行していた。北米版サーフィン誌の付随ハガキで商品が届く嬉しさも知った。
ポパイのライバル誌となるホットドックプレスには、いとうせいこうがいた。木滑文化から石川次郎編集長が生んだブルータス創刊号より100冊は、まだ押し入れに眠る。PR会社に勤める事になってからは、業務もからむを理由に更なる乱読へ。赤星編集のギャルズライフには、おかしなコーナーがあり何度も出演した。仕事で会える環境を良しとして、編集部の年上達とは、公私の仲になり、社会人として、男の子として、昼も夜も深夜も学ぶ事となった。
週刊プレイボーイY氏より、ジェントルマンの基本はロッド&ガンと言われ、高井戸警察で散弾銃の講習を受けた。月刊プレイボーイM氏とは、第2回パリダカ現地長期取材を目論みクライアントを巻き込む企画書を書いては持ち込んだ。なぜかアンアン誌上で、M石油のタイアップを組み、T康夫氏に原稿を書いて頂いた。何せ新型車のPR誌に、一切クルマを出さない!のコンセプトが通る時代でもあったのだ。
NAVI創刊号はクルマ文化論誌だった。編集部員とその時、その時の面白き企画をたて、取材費を捻出する為に、クライアントを廻る役目は、PR会社ディレクターとしては楽しかったが、営業職でありながら、ロケでほとんど会社に行かない日々もあり、今想っても危うい。
テレビ番組も同様なスキームで、ほぼ毎月ロケに出ていた。テレビ東京の名物番組<青春日本列島>ドキュメントのロケで2週間も各地を廻り、釣り番組ではアメリカ商務省観光局をバックにテニアン諸島取材で一ヶ月洋上。今コンプライアンスとメディアのあり方では、ほぼNGな事ばかりだが、FACTとその時その時の今性を考えるエディトリアル感性が、時代を映す鏡としてのマガジンの本性だと思う。仕事か遊びか境界線のないPRマンライフを送っていたが、会社を興してからも更に更に加速した。ある編集長とある月刊誌を立ち上げた(注2)。PR会社として逸脱した行為なのだが(私は逸脱が大好きな様で)そして手痛い失敗となった。
今2019年5月読み込み雑誌は、右系も左系も存分で、WiLL、Hanada、潮、正論、世界、創、現代思想、文春、新潮、AERA、Number、Daytona、ENGINE、東京人、GQ、Forbes、パーゴルフ、ゴルダイ、Choice、CG,Mr.Bike BG、ソトコト、dancyu、KAZI、本の雑誌、Newton、Fly Fisher、ブレーン、おっと最後に銀座百景も。紙媒体として、これらを読み込み、Web版もながめる。もちろんPR会社として社内にころがる各雑誌も全てながめる。そう活字中毒プラスオタクだったのだ。これらに年間60冊を義務とする単行本も加わる。人生の半分を過ぎた今、(多分)残りの半分の大切な事を学ぶとすれば、いったい何歳まで生きれば良いのだろうか?老眼鏡を置いてフト考える。
東京タワー麓の庵より
(注1)、(注2)を更に読み込む場合、お申込みのうえ有料となります。

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