東日本大震災支援募金について

2011年3月11日に発生した東日本大震災で被災された皆様に謹んでお見舞い申し上げます。

会員の皆様におかれましては、3月24日から開始しました、大震災の被災者・被災地支援のための募金「東日本大震災支援募金」にご協力をいただき、誠にありがとうございました。

「東日本大震災支援募金」は4月末日で締め切り、総額150万円の寄付をいただきました。

寄付先は5月26日(水)に開催されました理事会において審議した結果、100万円を社会福祉法人 中央共同募金会「ボランティア活動支援募金」に、50万円を株式会社石巻日日新聞社に寄付することに決定し、6月10日に実行いたしました。

中央共同募金会「ボランティア活動支援募金」は、被災者や被災地の復旧・復興のために活動するボランティアグループやNPOの活動を継続的に支えていくための募金で、すぐに寄付を役立てていただきたいということから決定いたしました。

 「石巻日日新聞」は、東日本大震災で甚大な被害を受けながら、翌日から6日間、手書きの壁新聞でニュースを発信し続けました。その壁新聞は、困難を乗り越えた歴史的な紙面として米国ワシントン・ポスト紙に報じられ、その後ボストンのニュース総合博物館ニュージアムに展示されました。被災しながら『手書き』の『壁新聞』という形態を取りながら、情報発信を続けた「石巻日日新聞」が寄付先に相応しいと判断し、お贈りすることに決定しました。

なお、6月22日(水)前協会理事の尾関謙一郎氏と大原常務理事が石巻に出向き、近江弘一代表取締役社長に目録をお渡ししました。


<特別寄稿>
 まだ信号は止まっている ~石巻日日新聞社を訪問して~
 前理事、元広報委員長 尾関 謙一郎氏

市内の信号はまだ止まっている。交差点は警察官の誘導だ。その背中には「警視庁」や「兵庫県警」の文字。
震災後3か月以上たっても、宮城県石巻市内中心街の信号は復旧していなかった。

日本パブリックリレーションズ協会が、石巻日日新聞に50万円を寄贈した。その目録を手渡しに6月22日、石巻市を訪れた。市役所やJR石巻駅周辺は一見すると震災を受けたとは思えない。しかし、交通信号だけではなく、あちこちで閉店したままの商店。津波の浸水で建物は大丈夫だったが、中は営業できる状態ではないためだという。

市内を一望する日和山公園に上ると、海側にかけての壊滅的な様子を見ることができる。ぽつんと石巻市立病院の5階建ての建物だけが。あとはすべて津波に流され、がれきや被災した車があちこちに。

石巻日日新聞は、津波被害にあった市街地と、助かった山際の住宅地の境にあった。

「100メートル手前まで津波の本流が来た。10トントラック2台が流されてきて、それが防波堤のような役目をして、本社屋が助かった」(近江弘一社長)という。

しかし、一階の印刷スペースまでは水が浸入、電気も止まり印刷できない状態になった。3月11日夕方から夜にかけて、発行不能状態になった石巻日日新聞だが、「こうしたときこそ手書きでも新聞を出そう」と暗闇の中での幹部会で近江社長が決断する。大正元年創刊から太平洋戦争の時期を除き、一度も休刊していない日日新聞の本領が発揮された瞬間だ。翌日、近江社長は社員が見聞きした被災の状況や、対策本部の情報を油性ペンで印刷用ロール紙に書き込んだ。市役所、中学校など避難所6か所に貼り出すと、被災者が食い入るように見つめる。

7日目から元のブランケット(一般の新聞の大きさ)4面での発行(震災前は8面)にこぎつけたが、もちろん部数は減り、広告も入らない。「他の地域紙のように廃刊になるよりは、ましな状況だ」と近江社長は言うが、厳しい環境であることは間違いない。
いま、被災地の人々に必要なのは、いつ仮設住宅が建つのか、再開した地元工場はどこか、仮店舗はどこに開設されたか、という身近な情報だ。これを伝えるのは、全国紙でも県紙でもない。地元に根付く地域紙だ。東北地方海岸線の地域紙は震災で次々に廃刊しているという。

こうした時こそメディアと表裏一体の企業広報は、広告で支援するべきではないか、との思いを強くして帰京した。


2011年6月22日
前理事、元広報委員長 尾関謙一郎
(明治学院大学)

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