紫式部とお父さんのPR秘話

株式会社TMオフィス
代表取締役 殿村美樹

◆PRに役立つ京都の歴史秘話
私はPR歴30年になりますが、ずっと関西にいながら、京都の歴史秘話を取材し続けてきました。千年の都・京都にPRのヒントになる歴史秘話がたくさん眠っているからです。
今、東京に人が集まって「一旗揚げよう」と頑張るように、京都では千年もの間、歴史上の人物はもちろん、多くの人たちが成功への道を模索し続けていました。そのエピソードは観光パンフレット等には見当たりませんが、PRの視点で現地を取材すると、びっくりするほどたくさん見つかります。そして「いつの時代もPRは大事どす」と教えてくれるのです。なかでもPRの極意が感じられる紫式部とお父さんの秘話をご紹介しましょう。

 

京都御所

 

 

◆紫式部の父、自己PRした漢詩で大出世
今昔物語に「藤原為時、詩を作りて越前守に任ぜらるる語」という話があります。
藤原為時は「源氏物語」を執筆した紫式部の父。文才に長けた人で、花山天皇の治世では文部科学省のような部署で活躍していましたが、一条天皇の代になると辞任し、その後10年間も官職に就けず貧乏暮らしを強いられていました。
しかし、さすがに「このままではいけない」と一念発起し、一条天皇に「自分を官職に登用して欲しい」と自己PRする漢詩を送ったところ、一足飛びに越前守(知事のような役職)に任じられたのです。背景には「越前に唐から来た商人が多く滞在していて、誰もコミュニケーションできずに困っていたところに漢詩ができる為時が現れた」というリアルな事情があったようですが、とにかく為時は出世を果たしました。

御所近くにある紫式部邸宅跡「盧山寺」

 

◆源氏物語も紫式部の自己PRだった?
父の出世は、娘の紫式部の人生に大きく影響しました。紫式部は父が10年間も官職に就けなかったことで婚期を逃してしまいましたが、父が越前守の任を果たした後、20代後半になって親子ほど歳の離れた山城守・藤原宣孝と結婚しました。しかし3年で死別したため、悲しみから逃れるために源氏物語を書き始めたと言われています。
ただ別説もあります。紫式部はもはや再婚を望める歳ではなく、女一人で生きていくしかなかったため、父ゆずりの文才を生かして朝廷に就職しようと「源氏物語」を書いたというのです。そうであれば朝廷を舞台にリアル感あふれる恋愛物語を描いた意味がわかります。朝廷内で「これ、あの人のことじゃない?」と噂にする作戦だったのでしょう。事実、右大臣の藤原道長が「源氏物語」の話を聴いて、紫式部を天皇の中宮彰子の女房に取り立てたのですから(自分の浮気話を封印する予防策との説もありますが)、紫式部のPRは成功したことになります。

 

御所近くにある紫式部邸宅跡「盧山寺」

 

◆歴史も文化もニッポンもPRがひっぱる!
どちらにしても、もしも藤原為時が一条天皇に自己PRの漢詩を送らなかったら、紫式部が結婚することも、源氏物語を書くことも無かったのです。歴史も文化もPRがリードしているのです。PRSJのキャッチコピー「広報・PRの仕事がこれからのニッポンをひっぱる。」は真実といえるでしょう。

 

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